12月2日、自民党高知県四万十市支部の皆様が、私の事務所に来て頂きました。
私の地元宿毛市の隣りです。
高知県議の土森正一支部長、四万十市商工会議所会頭に就任した佐田博支部長代理はじめ、AIコンサルタントの田辺豊代表取締役、右城一仁・中村商工会議所副会頭、サイバラ建設の西原功起社長、明星建設(有)の佐竹大樹社長が訪問してくれました。
彼らとは来週、地元の四万十市で懇親会をやる事になっており、楽しみです。
私は来年7月の参議院議員任期満了をもって、国会議員を引退致します。
29日午前9時30分より、自民党高知県連で記者会見を行いました。
私は来月7日に70歳になります。
この年齢が、体力や気力の大きな節目になるとは気が付きませんでした。
平成24年に両方の股関節を人工関節に置換する手術を受けているのですが、無理な運動をすると右股関節の外側の筋肉と腱が炎症を起こしやすく、その回復が今年になって遅くなり、歩行に支障をきたすようになりました。ただし、炎症の治った今は痛みも無く普通に歩けます。
また、平成28年の参議院選挙直後には、両膝も人工関節置換手術を受けており、サイボーグ状態です。
これらの原因は、長年にわたり少林寺拳法と空手道を続け、無理をし続けた結果だろうと思います。
とりわけ10月の衆議院選挙応援で長時間車に乗ると痛みがひどくなり、来年7月の参議院選挙の活動が不安になりました。
また、それと同時に、来年7月以降の6年間、全力で国会議員としての活動を全うできるかどうについて不安もあり、引退を決意致しました。
平成7年4月、宿毛市議会議員を振り出しに、4年後の平成11年4月には高知県議会議員に当選させていただきまして、4期16年間務めさせていただきました。
その間、平成16年には自民党高知県連政調会長をはじめとして、総務会長、幹事長、県議会では副議長、議長を務めさせていただきました。
そして、県議引退1年後の平成28年7月に、参議院議員選挙比例区において39万2千票をいただき当選する事が出来ました。
この間多くの皆様に支えられ、政治家として26年余り活動する事が出来ました。
とりわけ昨年9月から外務大臣政務官として、大変やり甲斐のある仕事をさせていただきました。
茂木外務大臣をはじめ、外務省の皆様には感謝しております。
また、北村有梨沙秘書官には大変お世話になりました。有難うございました。
引退会見後、午前11時頃からのテレビやインターネットのニュース、夕方にもニュースが流れ、全国から、予想以上の、大変多くの皆様から、電話やメールで激励や慰労の言葉をいただきました、感謝です、有難うございました。
後任は自民党高知県連の中谷元会長にお任せしますが、既に自民党高知県議団は前県連幹事長の梶原大介県議に決めたそうです。
私は残された8ヶ月の任期満了まで、全力で議員活動にとりくみますので、宜しくお願い致します。
有難うございました。
愛媛県愛南町にある日本海軍戦闘機「紫電改」記念館を久しぶりに訪れた。
ここは宿毛湾の北側になる。下の写真の遠景の右側が高知県大月町柏島になり、左側は私の故郷、宿毛市小筑紫町になる。
この紫電改は昭和20年7月24日の豊後水道上空の空中戦を戦ったうちの一機であり、愛南町沖に不時着水した。
海軍松山第343航空隊、通称「剣部隊」の一機で、当日の戦死者は6名。正確には誰か分からないが、おそらく武藤金義少尉の機であろうと推測される。
機体に弾痕もなく、プロペラの状況からみて見事な不時着水であり、ベテランパイロットであったと推測される。
墜落時は昼間であり、目撃者もいたが、遺体も遺品も全くない。
昭和54年7月14日に引き上げられたが、私はこの時期、海軍兵学校第68期の豊田穣氏の書かれた「蒼空の器」を読んでおり、その主人公が海兵同期の鴛淵孝海軍大尉であった。
鴛淵大尉は343空の第701飛行隊長で、この日戦死されていた。しかし、その後の調査で鴛淵大尉は僚機の初島上飛曹と共に大分県沖に墜落したと推測されている。
11月3日文化の日、高知県立美術館で、私の故郷高知県宿毛市出身の奥谷博画伯の「奥谷博ー無窮へ」と題する回顧展の開会式典があり出席しました。
奥谷画伯は1996年に日本芸術院の会員に選出され、2007年には文化功労者として顕彰されました。さらに2017年には文化勲章を受章されました。今年87歳になられます。
上の写真は式典終了後に記念撮影をさせていただきました。
私は奥谷画伯とは、宿毛市や東京で何度もお会いしており、また、作品は高知県や宿毛市の展覧会で何度か見ておりますが、少年時代の絵は初めて見ました。
下の写真は展覧会「奥谷博ー無窮へ」の公式図書兼書籍として刊行された書籍の「宿毛時代の作品」と題するページの作品集で、左上の絵は小学6年生の時の作品だそうです。
下の写真は式典終了後の奥谷画伯の講演会で、上の絵を説明しています。
この講演会は1時間ありましたが、先生の絵の説明が大変興味深く最後まで聞かせていただきました。
その話の一つは、奥谷画伯が宿毛高校を卒業する昭和27年当時は画家になっても食べていけない時代で、進路相談にのってくれた高校の先生は、東京藝術大学は止めて法学部へ行って弁護士になりなさいと言われたそうです。
しかし、父も、幼い頃に亡くなった母親代りで絵の先生でもあった18歳年上の姉をはじめ、家族の誰一人東京藝術大学を受験する事に反対の声もあがらす、2年浪人した後で東京藝大に入学出来たそうです。
それ故に奥谷画伯は、いつも家族に対する感謝の言葉を話されます。
また。その姉上の死に際し描かれた「月露」と題する作品は、神戸市での展覧会後、次の展覧会場である松山市から、作品は直ぐに送って欲しいとの要請があり、当初の予定を早めて送った直後に阪神・淡路大震災があり、奇跡的に被災を免れた、との話があり、作品には運命のようなものがあると話されました。
(下の写真がその作品で、先に紹介した画集から撮影しました。)
画集での画伯の説明には「作品には運命のようなものがあり、姉に見守られていたような気がした。私の画家としての転機となった1点である。」とあります。
下の写真左は宿毛市の中平富弘市長です。