自民党の戦没者遺骨帰還に関する特命委員会に出席

5日(月)午前8時30分から自民党本部で戦没者遺骨帰還に関する特命委員会が開かれた。

はじめに厚生労働省から議題である、議員立法平成28年3月に成立した「遺骨収集推進法」に基づいて作られた「戦没者の遺骨収集の推進に関する検討会議中間取りまとめ」の報告があった。

私は開会直後に入室したが、報道のテレビカメラが冒頭撮りに入っている事について、尾辻秀久委員長から自民党職員に対して、誰が許可したのかと強い怒りの発言があり、テレビカメラを退室させた。

私は尾辻委員長の怒りの意味が分からなかったが、会の最後に尾辻委員長から閉会の挨拶の中で次の発言があり、納得した。

尾辻委員長は「この挨拶が感情的になるのを許して頂きたい。私も水落議員も親父を戦争で亡くした。

戦後、戦没者遺族の家にはその旨の表示がなされ、戦犯だと批判された。

そして尾辻委員長の家には石が投げ込まれ、何度かガラスが割られた。それを煽ったのはマスコミだ。

戦後初めてサイパン島テニアン島に遺骨収容に行ったが、テニアン島の海岸は(日本兵の)遺骨だらけであった。

この時は全て自らの費用で行き、政府からは何の援助もなかったし、マスコミは戦友・遺族が遺骨収容に行った事は全く報道しなかった、今さら何だ。」

と強い怒りの発言があり、それは私の心に強く響いた。

尾辻委員長がテニアン島へ初めて行ったのが何年かは分からないが、中間とりまとめ報告書によると、政府派遣団による遺骨収集事業は昭和27年度から始まり、昭和32年度に一旦概了とされた。

政府事業概了後も、遺族や戦友による独自の遺骨収集活動が継続され、日本が豊かになって海外旅行者が増えた事により、旧戦域で遺骨が発見されたとの情報が多く寄せられた状況を踏まえて、昭和42年度から47年度まで第2次の遺骨収集事業が行われた。

さらに昭和48年度から昭和50年度まで、第3次の事業が行われた。

その後も政府により、これまで相手国の事情等で遺骨を収容できなかった地域でも、新たに収容が可能になった地域等について、継続的な遺骨収集が実施されている。

最初の頃は南方の島々では多数のご遺骨が散乱していたとの話は聞いていた。

私は遺族ではないが、高知県遺族会の皆様と共にフィリピンへ2度、南海支隊戦友遺族会の特別会員として東部ニューギニアへ2度慰霊巡拝に訪れた。

現地で日に何度も行われる慰霊祭は、遺族の皆様にとって戦争は終わっていないということを痛感させられる。

戦没者を慰霊する事の大切さは、大正12年生まれで、日本海軍の主計兵士として従軍し生還した父・兼行から聞かされた影響である。

父は国のために戦い、死んでいった故郷や海兵団の戦友の事をよく話してくれた。それが自然と戦没者を尊敬する私の心を形成した。

若い時にできれば遺骨収容にも行きたかったが実現出来なかった。

この会では、この法律を作る中心となった何人かのベテラン議員から、中間報告書を作った厚生労働省の官僚に対して強烈な反対意見が表明された。

ご遺骨の収容に対する真剣さが足りないという批判である。

私は南海支隊戦友遺族会の活動を通して、アメリカとオーストラリアでは、軍隊の中にご遺骨の収容を専門に行う組織があり、最後の一兵まで戦死者を祖国に帰還させるという強い思いがある事を痛感した。

日本では未だに、海外における戦没者約240万人のご遺骨の半分も帰っていない現状がある。