「巨人 出口王仁三郎」を再読した

「巨人 出口王仁三郎」を読みました、三度目でしょうか。

この講談社文庫は昭和50年6月に初版が発行されています。著者の出口京太郎氏は王仁三郎(おにざぶろう、ワニとも読む)のお孫さんです。

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下の写真はこの本の2ページ目に載っている、出口王仁三郎の写真です。
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出口王仁三郎の事を知ったのは大学生の頃でした。日本学生同盟の先輩であった片瀬裕さんが出口王仁三郎のことを大変研究しており、片瀬さんからその凄さを繰り返し聞かされたのが始めであった。

この本の解説文は上田正昭氏(京都大学教授)が書いており、それによると出口王仁三郎は「1892年(明治25)、出口なお(大本開祖)の神がかりによって開教をみた大本を、教団として大成し、その教義を体系化して、注目すべき運動を内外に展開した出口王仁三郎は、日本の近代が生んだ「巨人」であった。」…

出口王仁三郎は「1871年(明治4年)に現在の京都府亀岡市曽我部町穴太の農家の長男として生まれた。当時の名前は上田喜三郎。… .

 彼の宗教者としての自覚は、1898年(明治31)、郷里穴太の西方にそびえる高熊山への入山修行によって決定的となり、翌年の大本入りによってさらに開花した。
 1900年(明治33)、大本開祖出口なおの娘すみ子(通称すみ、二代教主)と結婚した喜三郎は、1903年(明治36)の"筆先"(神諭)によって王仁三郎と改名した。時に32歳であった。」と書かれている。

出口王仁三郎は、宗教家であり、予言者でもあった。

関東大震災を予言し、満州事変、日中戦争、さらに日本が世界を相手に戦う大東亜戦争を予言し、その戦争に負けて、東京を始め国土が焼け野原になる事を20年も前から予言し、文章に残していた。

予言を世に警告する活動を派手にやった為に、1921年(大正10)2月12日に第一次大本弾圧事件に遭い、さらに1935年(昭和10年)12月8日には、第二次大本弾圧で多くの信者と共に逮捕投獄され、大本教の全ての建物は徹底的に破壊された。

また、この第二次弾圧では、警察は出口なおの墓まであばいている。しかし、二度にわたる弾圧も控訴審ではいずれも無罪となっている。

この当時の逮捕者に対する警察、検察の拷問は凄まじものがあったが、当時はそれが普通であったと書かれている。

警察、検察による様々なでっち上げ、拷問、そこには人権などない。

これが、昭和20年8月15日以前は普通であった。

戦後、逮捕者、投獄者に対する人権擁護の声が高くなったが、この事件をかえりみれば無理もないと思う。

王仁三郎は、第二次弾圧事件で6年8ヶ月、第一次弾圧事件と合わせれば通算8年以上投獄されているが、自らが逮捕投獄される事を予言していた為、本人は諦めていたというから凄い。

また、他の幹部の投獄期間も言い当てていたと言う。

私にとって大変興味があるのは、第一次弾圧事件で保釈中の大正13年(1924年)の始めに蒙古へ旅立ち、当時の大陸浪人、日本人馬賊などを配下として大活躍している時期である。

ちなみに、この時にボディーガードとして同行したのが合気道の開祖・植芝盛平である。

この中国東北部、満蒙での活躍は、当初はこの地方を支配していた張作霖の了解の元に行われたが、あまりに出口王仁三郎の評判が高くなり過ぎた為に、張作霖の命令でその配下によって王仁三郎一行は逮捕されてしまい、銃殺刑執行の直前にそれが取り止めになり、日本へ送り返された。

その理由は、日本の有名人である出口王仁三郎を銃殺すると、日本との関係が危うくなる事を恐れた張作霖の命令で、銃殺刑が取り止めになったようだ。

しかし、馬賊に憧れて日本人馬賊の本を沢山読んだ私にとって、小日向白朗(「馬賊戦記」朽木寒三)、伊達順之助(「夕日と拳銃」檀一雄)などとの交流が出ており、この後、「夕日と拳銃」を再読しようと思っている。