ジョン万次郎祭り 最終章

はじめに、ジョン万次郎祭りに、在ボストン日本国総領事館の鈴木光太郎総領事が出席して開会式で挨拶された事がぬかっていたので追記します。名刺交換をしました。

私がジョン万次郎を強く意識したのは中学2、3年の頃であった。60年近く前だ。

高知新聞に、土佐清水市のどこかの漁村で育った同い年の中学生が、ジョン万次郎に憧れて、手漕ぎの天馬船で太平洋に漕ぎ出して行方不明になった、という記事が載った。

その後、その中学生は行方不明のままだ。

当時の私もジョン万次郎に憧れていたので、その記事が強く印象に残った。

それからも、私の心にはジョン万次郎と海外への憧れが残り続けた。

十数年前から、土佐清水市とホィットフィールド船長の住んでいたフェアヘブンの町との交流が始まった事は高知新聞の報道で知り、一度はフェアヘブンへ行って行ってみたいという思いはあったが、この時期は県議会開催中であり、参議院議員になってからは臨時議会開催中であり参加出来なかった。

今回で交流会は18回目だそうだが、やっと念願がかなった。

ここで改めてジョン万次郎の軌跡を記すと、

ジョン万次郎は、1827(文政10)年、高知県土佐清水市中の浜に生まれた。

1841年、14歳の時に、土佐市宇佐の漁船で5名が漁に出た際にしけに遭って漂流し、鳥島へ漂着、

1841年6月27日、アメリカ合衆国捕鯨船ジョン・ハウランド号の船長ウィリアム・ホイットフィールドによって救助された。

1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港した。それからフェアヘブンに住み、小学校に通った。

1851年(嘉永4年)沖縄の糸満市に上陸、日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。

その後、徳川幕府の通訳として、日米の交渉で活躍した。

明治維新は1868年、155年前です。

その後は明治政府の要職にはつかず、明治31年(1898年)、71歳で逝去した。

土佐清水市養老にある「ジョン万次郎記念館」には何度も通った。

外務大臣政務官になってから、英語の勉強をアメリカ人から教わる機会があり、その教材に、ジョン万次郎の5代目の中濱京さんが書いた「ジョン万次郎 日米両国の友好の原点」という本を「ジョン万次郎記念館」で見つけて英語の教本にした。

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中濱京さんは名古屋市在住で「土佐ジョン万会」名誉顧問となっている。

この本によると、6代目は知靖(ともやす)さんとなっている。京さんの息子さんでしょうか。

また、ホィットフィールド家は7代目がワイヤット(Wyatt)となっている。おそらく私がフェアヘブンであったスコットさんの息子さんであろう。

こうして、中濱家とホィットフィールド家の交流はこれからも続く。

来年は土佐清水市ルーニーさんご夫妻が来て、ジョン万次郎祭りが行われる予定なので、是非参加したいと思っている。