東北被災地視察その4

写真を追加しました。

陸前高田市の状況
歌手の千昌男の故郷である、彼の歌にも出てくる。
昨日、東北地整の川嶋部長が、一番被害が大きいのが陸前高田ですと言っていたが、広範囲に被害を受けている。航空写真を見るともっとすごい。

海岸堤防があちこちで破壊され、市街地が完全に消失している。
海岸沿いにある野球場は破壊された上に、地盤沈下で水没している。埋立地に建てたものであろう。

また、残ったビルも4階付近までは壊れている、15メートル以上の津波が襲ったのであろう。


気仙沼市の状況
過去に2度訪れた覚えがある、その時に、市長から土佐佐賀のカツオ船団が気仙沼市に経済的に貢献してくれるので毎年のように表彰されているという話しを聞いた。
親しみを感じたので街を歩き回ったのだが、その場所がどこであったのか全くわからない。

ここは火災も多く発生したので焼け焦げた建物や車があちこちにある。
横断歩道橋までが焼け爛れている、道路で車が燃えたのであろう。
海岸近くの道路には百トン以上あるであろう貨物船が、道路と住宅地に鎮座していた。
また、ここも地盤沈下のため市場周辺の海岸線が波に洗われている映像をテレビで見たが、この日は大潮の上、ちょうど視察した時間が満潮と重なったために浸水によって市場に通ずる道路が通行止めになっていて市場まで行けなかった。
気仙沼駅の周辺は少し高い所にあり、家屋が普通に残って住民が生活している。
少しだけ高いだけのことだが、不思議な感覚を受けた。

ホテルに帰り着いたのは午後7時10分、13時間以上に及ぶ視察であった。
我々も疲れたが、車を運転してくれた大旺新洋?の山下さん、佐藤さんに感謝します、有難うございました。
現地を訪れて見て感じたことが、大きく二つある。
一つはあまりにも広範囲な地域が壊滅的な被害を受けているので、信じられない思いがしている。
あちこちに、「津波浸水予想地域」の標識があった。しかし、それより低い地域に家がたくさん建っていた。年月が過ぎるとともに災害にあったことを忘れるのであろう。
明治29年(1896年)の明治三陸地震は震度3とか4程度であったそうだが、大津波の被害が甚大だった。
そのため、ここから下には家を建てるなという言い伝えがあったり、その旨を記した石碑が残っている。
しかし、人は時が経つにつれて忘れる、いつしか大津波はもうこないだろうと思って家を建てるのであろう、無理もない。
福井照衆議院議員が整備局の部長との話の中で、今回の規模の大災害が次に来るのは千年後だ、この今回の津波被害の映像を千年残せるか、どういう方法があるか、と聞いていた。
残す手段はあるであろうが、千年後にそれを見る住民に危機意識が伝わるかどうかである。
もう一つは、いくつもの市町村が壊滅して2万人以上の死者、行方不明者が出た。家族が亡くなった土地にもう一度家を建てて住もうと考える人がどれだけいるかである。
視察に行く前に、大旺新洋?の社員の方が「所によっては、あすこにもう一度人が住むだろうかと思うような所がある。」と言っていた、その時には実感がわかなかったが、現地を訪れてみて理解できた。
復興に何年かかるのであろうか。4ヶ月経って一部には復旧している場所もある。
また、いたる所に「がんばろう東北、がんばろう○○○」(○は地域の名前である)などの旗が立っている。
一方で被災者の自殺も増えているという、国をあげて復旧に全力を尽くすべきだとあらためて思ったし、高知が地震津波被害を受けた時に、行政はいかに住民の生命を守るかに全力を尽くすべきだと痛感した。
15日(金)は仙台市に隣接した多賀城市塩釜市、松島市を車で視察し、午後の飛行機で帰途についた。