秘録東京裁判(清瀬一郎)

最近、中国問題評論家の宮崎正弘さんの本で、清瀬一郎氏の「秘録 東京裁判」(中公文庫BIBRIO20世紀)を若い時に赤鉛筆を弾きながら読み、最近再読したとの話を読んだ。
それで私も、何回目になったか読んだ。
東京裁判の本は、田中正明先生の「パール博士の日本無罪論」を大学時代に読んで、自分の習った歴史が全く違っていたことに気がついた。
自分の習ったというより、現代史を小学校から高校まで教えていないのではないかと思う。
自民党では稲田朋美政調会長のもとで東京裁判を検証し直すとの報道を読んだ。
義務教育と高校の日本史の授業は東京裁判から始めれば良いのではないかと思う。
東京裁判が戦後日本の始まりだ。これがいかに戦後生まれの日本人の誇りを傷つけてきたか、この見直しが日本の再生に繋がるだろう。
今回読み直して、次の点を再認識した。
初めに「日本の指導者が裁かれたのは昭和3年(1928年)から昭和20年(1945年)8月15日までである。昭和3年は田中義一内閣のいわゆる田中上奏文(偽書)が作られた年である。」
現在では田中上奏文なるものは偽書であることが多数説であり、東京裁判のそもそもの前提からして間違っている。
次に徳富蘇峰の手紙(P100)である。
「今日に於て、最も不愉快なるは本邦言論界の本裁判、特に尊先生(清瀬一郎氏)に対する態度也。対手国側(連合国)の言論界は兎も角も、自国側の言論界は今少しく日本人らしくあるべき筈のところ、丸るで他邦人口調では到底、箸にも棒にもかからぬとは此事と存候。尊先生は此際日本国を代表して世界の法廷に向て明治維新の皇謨以来の真面目を御説明相成候事なれば、天下を挙て之を非としても決して御躊躇はなきことと拝察候得共、斯る情態なれば、此際、一層明快剴切天下千秋の公論を開拓する為め、御奮闘奉祈上候。」( )は筆者の注
この文は徳富蘇峰先生が、東京裁判の報道を見て、清瀬氏に出した手紙を清瀬氏が紹介したものである。
先の秘密保護法審議の際の一部のマスコミの報道姿勢、現在の安保法制の報道姿勢も同じである。
朝日新聞は、大東亜戦争中は戦争遂行を真っ先になって扇動し、戦後は手の平を返して戦前の政治家、軍幹部を罵倒した。良識のかけらもない。
もっとも戦後しばらくは、米国の日本弱体化政策と、ソ連とその指導を受けていた共産党社会党の日本共産化政策が同一方向を向いていたので同床異夢で戦前の日本叩きが出来た。一部は未だに続いている。
次が、「東京裁判でいう平和に対する罪、また人道に対する罪というのは、同年7月の時点では戦争犯罪の範囲外であるから、かくのごとき起訴は当然却下されるべきものであるというのが、我々弁護団のとった方針の一つであった。」(P31)
「ウィリアム・シーボルトという人が、『マッカーサーと共に日本にありて』と題する本を書いた。日本語訳は「日本占領外交の回想」となっている。その中でシーボルトはこう言っている。
『当時としては国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために、勝者が敗者を裁判するというような議論には、私は賛成できなかった。もちろん、これと反対の意見の中にも、相当の説得力を持ったものもあった。そして歴史によって、その正当性が証明される時が来るかもしれない。しかしこの点に関しては、私の感じは非常に強かったので、この最初の演出された法廷の行事が終わるまで、私は、不安の感じに襲われ、再び法廷には戻らなかった』」
この記述は、東京裁判が勝者による敗者に対する復讐であり、近代刑法の罪刑法定主義の4大基本原則(①罪刑の法定、②罪刑の均衡、③類推解釈の禁止、④遡及処罰の禁止)の一つである「遡及処罰の禁止」を全く無視して行われたことを批判している。これは現代においては正当な裁判とは言えないことを証明するものである。
次にポツダム宣言は無条件降伏だったのか(P35)、
ポツダム宣言第13条は『日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し』とある。
「本来ポツダム宣言というものは日本に降伏の条件を示したものであるが、実質的に無条件降伏と等しいように見えるように起草されたものであるから、元来これを無条件降伏そのものとみる事は甚だしく無理である。」
「第13条には、単に日本軍隊の無条件降伏ということを入れており、あたかも日本国が無条件降伏をしいられたかのごとくみせかけているのである。」
ポツダム宣言の受諾は無条件ではなく、日本国の軍隊のみが無条件降伏したのであり、それ以外の条件については別記されていることが、アメリカ国務省が発表した「1945年7月26日の宣言と国務省の政策の比較検討」という文書を解説して紹介している。
これら以外にも次の文章が印象に残ったので紹介する。
この当時は原爆投下がどこで決定されたかは誰も知らなかったが、「 梅津美治郎被告の弁護をしたB・ブレーク二ー君である。彼は、スチムソン陸軍長官が原子爆弾使用の決定をしたことを証明する証拠を提出せんとした。これは大変なことで、この戦争中の最大戦犯である。もしこの証拠提出が許されていたら、これは世界的な大問題となるべきものであった。」(P130)
当然のことながら、この申し出はイギリスのコミンガー検事とウェッブ裁判長によって却下された。

 木戸幸一被告の弁護に当たったローガン弁護人は
「欧米諸国は日本の権利を完全に無視し、無謀な経済的圧迫をなした。また真珠湾に先立ち、数年間故意に、かつ計画的に、共謀的に日本に対し経済的、軍事的圧迫を加え、しかもその結果が戦争になる事は充分に承知しており、そう言明しながら、彼らが右の行為をとったという事実がある。
また肯定的弁護として、次の事実が証明される。すなわち情勢はいよいよ切迫し、ますます耐え難くなったので、日本は欧米諸国の思うツボにはまり、日本からまず手を出すようにと彼らが予期し、希望した通り、自己の生存そのもののために戦争の決意をせざるを得なくなった」(P132)と弁護した。
加えて言うなら、1951年5月3日にマッカーサーが上院軍事外交合同委員会で証言した、太平洋戦争は日本の自衛戦争であったという趣旨の証言も追記しておく。

「当時ヤルタ協定は誰も知らなかったが、昭和20年(1945年)の12月に米国陸軍法務官プライスという人は『NYタイムズ』に次のような論文を発表したことがある。
東京裁判は、日本が侵略戦争をやったことを懲罰する裁判だが、それは無意味に帰するから、やめたらよかろう。なぜならば、それを訴追する原告、アメリカが、明らかに責任があるからである。ソ連は日ソ不可侵条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任でなく、戦後に千島、樺太を譲ることを条件として、日本攻撃を依頼し、これを共同謀議したもので、これはやはり侵略者であるから、日本を侵略者呼ばわりして懲罰しても、精神的効果はない』
この論文の趣旨は当時、日本にも伝わった。この文章の作者は米国人で、しかもその法務官である。我々は、当時その大胆さに驚いたが、今から考えてみれば、当時すでにヤルタ協定の対日部分は、米国内では部分的に知られていたもののようである。」(P134) 

 「元来、日本は太平洋戦争中はソ連とは不戦条約を結んでいた。1945年8月9日、アメリカが原爆を長崎に投下した日に不戦条約を破棄して満州にナダレ込んで来たのであるから、日本がソ連に対する侵略の事実のあろうはずがない。満州に残っていた兵士や、日本民間人を俘虜だといって連れて行ったのはソ連であるから、俘虜虐待はソ連側にあって、日本側にない。
そこで張鼓峰事件とノモンハン事件を日本の侵略戦争と見立てた。
それで梅津美治郎重光葵を被告に加えることをキーナン迫り、キーナンがこれを入れたが、無理があった。
重光は昭和25年11月には仮出所を許され、昭和26年11月には刑期満了した。これを知ったキーナン検事は、昭和27年2月9日付けで、重光の弁護人ジョージ・ファーネス君にに、お詫びの書簡を寄せた。」(P168)

 (清瀬氏は、広田弘毅氏が軍事参事官になったとの誤りや、荒木貞夫大将が国家総動員審議会総裁であると記載されたこと等の誤りを指摘した際、裁判官が訂正したにもかかわらず、判決は訂正されてない事に触れた上で)
「我々日本人は、判決書は必ず裁判官が書くものだと思い込んでいるが、東京裁判ではどうもそうではなかったらしい。
昭和23年の3月に証人調べが済んでから聞いたところによると、判決起草委員会なるものができ、その委員会には裁判官は出席せず、証人調べや法廷のやりとりを一切知らない人が委員となって、起訴状やその他二、三の書類を参照して作った作文が判決となったにすぎないようである。このことは秘密になっているが、フランス代表のアンリー・ベルナール裁判官の個別陳述中に次のような記事がある。
『判決文中の事実の調査結果に対する部分全部は、起草委員によって起草され、その草案は進捗するにつれ多数と称せられる七判事の委員会に提出された。この事実の複写は他の四判事にも配布された。そしてもし必要なら草案の修正のために、この四判事は自分たちの議論の内容に鑑みて、自分らの見解を多数判事に提出することを要求された。しかし法廷を構成する十一判事は、判決文の一部または全部を論議のために召集されたことはなかった。ただ判決文の個人の場合に属する部分だけが、口頭審理の対象となった」(P172)