能登半島地震への政府の対応について

令和6年能登半島地震で、政府は直ちに自衛隊を千人体制で派遣するとの岸田総理の発言があり、自衛隊はすぐに動き、その後2千人体制に増員するとの報道があった。

しかし、能登半島珠洲市輪島市は土砂崩れと道路崩壊で陸路が使えなかった。

陸上自衛隊海上自衛隊には大型ヘリのCH-47系、海上自衛隊にはMCH-101、陸上自衛隊にはV-22オスプレイがあるが、マスコミ報道を見る限り、これらの大型ヘリの活動が遅れている。

また、陸海空の自衛隊にはUH-60ブラックホーク系の中型ヘリもある。

今日の報道では、中型ヘリのUH-60系は動いている報道を見たが、大型ヘリは見ていない。

大型ヘリとオスプレイを早く活動させれば支援物資の大量空輸と自衛隊員の派遣は出来ただろうに、何故出来なかったんだろう。

正月休みで可動体制が整うのに時間がかかったのだろうか。

そして、体育館等の大型建物の避難所は相変わらず雑魚寝だ。

3年前だったと記憶しているが、参議院予算委員会で、野党の議員から、避難所内のプライバシーを守る為にキャンプで使う4〜5人用のテント、マットを全都道府県に配備すべきだ、すでにイタリアでは配備されている、との質疑があり、政府答弁では配備を進めるとの答弁があった。

私は数週間経ってから、高知県に政府から配備の対応があったかどうかを確認したが、まだ高知県には対応の通知がないとの事であった。

これも進行状況について、現職議員を通じて問い合わせている。

 

令和6年 謹賀新年

正月早々、能登半島で大地震が起き、大変な被害が出ている。昨日からテレビを見ているが、被害の全貌はまだ分からない。

被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

これまでもこのブログで、日本国内はどこで地震津波の大被害が起きても不思議ではないと書いてきたが、正月早々にそれが現実になった。

また、昨年12月に発覚した自民党清和会、二階派等のパーティ券の問題は、マスコミではリクルート事件以来の不祥事だ、との報道があったが、SNSが発達した現在では、自民党にとってリクルート事件以上の大打撃になるであろう。

それを裏付けるようにマスコミ各社の世論調査で、自民党の支持率は落ちている。

当分の間、自民党が支持を回復するのは難しいであろう。日本の政界は先の見通しが全く立たない。

世界に目を向けると、ウクライナ戦争、イスラエルのガザ侵攻の先行きを非常に心配している。

私は参議院議員の現職の当時から、ロシアのプーチン大統領は、思考と行動がヒトラーに似ているので注視すべきだと、発言と発信をしてきた。

今のロシアとNATO諸国との関係は、第二次世界大戦が始まった当時のナチスドイツとイギリス、フランスとの関係と非常によく似ている。歴史は繰り返す。

ウクライナ戦争によって世界のエネルギー、食料、飼料等の奪い合いが始まり、日本もその影響を大きく受けている。

グローバリズムは消し飛んだ。

また、イスラエルによるガザ地区侵攻は、ガザ地区にいる武装勢力ハマスと、シリアにいるヒズボラはイランの支援を受けている。

また、イエメンにいるフーシ派もイスラエルの船舶攻撃を行い、米軍がこれを撃退した。フーシ派もイランの後援を受けていると言われている。

米軍、イスラエル軍とイラン軍が直接戦闘を行なった場合、ペルシャ湾の入口にあるホルムズ海峡をタンカー等が航行出来なくなる。

日本は現在、原油の95%をペルシャ湾岸のサウジアラビアUAEアラブ首長国連邦等から輸入しているが、ホルムズ海峡が航行出来なくなれば日本経済は大打撃を受ける。

先月、米海軍の「ドワイト・アイゼンハワー」空母打撃軍がペルシャ湾に入りイラン軍に対して睨みを効かせているが、イランが反撃すると世界大戦に発展する可能性がある。

イスラエルパレスチナとの対立は3千年前から続き、どちらの民族も相手を壊滅的に攻撃した歴史がある。簡単におさまる可能性は少ない。

日本国内も世界情勢も大変な年明けとなった。

 

 

アメリカ独立戦争と南北戦争

私は、アメリカの歴史は、1620年、102名の清教徒がメイフラワー号でプリマスへ渡った時から始まったと、勘違いしていたが、改めてアメリカの独立戦争南北戦争について、日本では適当な解説本がない事に気が付いた。

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この本によると、アメリカ大陸は、1492年、イタリア人であるコロンブスが、スペイン女王イザベルの支援を受けて航海に出て発見して以来(日本では室町時代)、ポルトガル、オランダ、スウェーデン、フランス、イギリスなどがアメリカ大陸に進出した。

この中でイギリスが、16世紀後半にヴァージニアを植民地として建設が始まったそうである。

ところが、最初の植民者は全員が行方不明になり、いったん放棄され、1607年に植民地建設が再開されたそうである。

その後、アメリカ独立戦争(英: American War of Independence)が始まり、1776年にアメリカ独立宣言をした。

独立戦争は1775年4月19日から1783年9月3日まで、イギリス本国(グレートブリテン王国)と北アメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。

質実剛健で、かつ抜け目のない人々』のことを指す言葉として『ヤンキー』なる語が生まれた。今ではアメリカ人全般を指すものとなっているが、もともとはこうしたアメリカ北部の人々に対する呼称である。

 ドイツの社会学マックス・ウェーバーは、その古典的、名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、アメリカ独立戦争で活躍した建国の父の一人、北部、マサチューセッツ出身のベンジャミン・フランクリンについて、『資本主義にとって極めて革新的な思想』を体現した人物だったと評している。

 ウェーバーの主張とは、プロテスタント信者が持つ禁欲的な道徳感情、そしてそれに支えられた、素朴な生活態度こそが、近代資本主義の礎石を形成したというものである。なぜならば、ウェーバーは、資本主義を単なる拝金主義とは一線を画す、近代的合理主義の産物だと喝破していたからである。プロテスタントの禁欲的道徳心は、まさにこの合理主義を下支えしていたのであり、ウェーバーにとってヤンキーは、模範的すぎる近代資本主義の申し子だった。」

「この戦争の米国の戦死または戦病死者数は25,000名、負傷者 25,000名」と書かれてある。

次に起こったのが南北戦争である。

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南北戦争は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて行われた。

この戦争の原因は、南部の奴隷解放戦争であったと小中学校で教わった。

上の「南北戦争」という本によると、確かに

1863年1月1日、合衆国大統領、エイブラハム・リンカーン奴隷解放宣言を布告する。その文面は以下のようなものだった。

 『1863年1月1日に、合衆国に対し謀反の状態にある州、あるいは州の指定地域の内に奴隷として所有されているすべての人々は、その日ただちに、またそれより以後永久に、自由を与えられる。』

 南北戦争は、アメリカの奴隷制の是非をめぐって始まったにもかかわらず、リンカーンは開戦以来、この問題への言及を巧みに避け続けてきた。それが境界州を北部陣営に引き留めるための行動だったことは、すでに書いた通りである。」

リンカーンのこの宣言は、出たら出たで、様々な悶着を引き起こした。…

 つまり、奴隷性を保持しながら北部側に加わったケンタッキー、デラウェアミズーリ、メリーランドなどの境界州にいる黒人奴隷たちは解放の適用外であった。また、それまでに北軍が制圧していたテネシー、さらには北軍の実効支配下にあったバージニアや、ルイジアナの北部地域などにいる黒人奴隷も、開放の対象とはならないといった補助規程が、この宣言には細々とつけられていた。

 南部連合国が支配している地域にいる黒人奴隷を、北部合衆国政府や北軍が物理的に開放できるわけはない。歴史家のサムエル・モリソンが言うように、『現実には、それは1人の奴隷も解放しなかった」のである。」

「当時のアメリカの総人口3100万人のうち、300万人が兵士となり、双方の戦死、戦病死者は60万人」と書かれてある。

南北戦争の戦死、戦病死者の数が多かった事は、朝鮮戦争ベトナム戦争に比較して紹介されるので覚えていた。

この2冊の本は「一冊でわかる アメリカ史」が2019年に、「南北戦争」が2020年に出版されているが、それまで、南北戦争を題材にした「若草物語」や「風と共に去りぬ」などの小説はあっても、アメリカ独立戦争南北戦争が気軽に読める解説書がなかった。

それが、私がアメリカ大陸へヨーロッパ人が入植してから、南北戦争が終わるまでのアメリカの歴史を知らなかった原因でした

これに続いて、いま永井荷風の「あめりか物語」(新潮文庫)を読んでます。

永井荷風明治36年(1903年)24歳の時から、明治40年(1907年)までアメリカへ留学した時の旅行、留学記で、この本は知っていても読んだことがなかった。

なかなか興味深い本です。

司馬遼太郎の「アメリカ素描」を読んで

司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」を久しぶりに再読して、私がアメリカの歴史を知らないことに気がついた。

司馬遼太郎氏の本は、「燃えよ剣」、「龍馬がゆく」、「坂の上の雲」、「飛ぶが如く」など何冊か読んだ時期があった。しかし、明治以後を否定的に捉える司馬史観には賛成できない。

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アメリカ素描」は、10月にアメリカ東部のボストン、フェアヘブン、ニューヨークを旅行して以来、アメリカ独立当時の歴史を知らないことに気がつき、再度読み始めたものであった。

司馬遼太郎氏の「アメリカ素描」(新潮文庫)文庫本の初版は平成元年(1989年)の4月だが、いつ読んだのか、少なくとも2008年のリーマンショック以前に読んだ記憶がある。

その後、図書館から借りてきて「一冊でわかるアメリカの歴史」(関眞興、河出書房新社)、「南北戦争」(小川寛大、中央公論新社)を読んだが、アメリカの独立戦争南北戦争について書く前に、「アメリカ素描」の最後の方で、当時の米国のウォール街で主流になっていた金融商品取引について、司馬氏が懸念する記述があり、私も同じ思いでいたが、それは2008年9月にリーマンショックとなって現実になったので、それについて記し、アメリカ独立戦争南北戦争については日を改めて書きます。

その436ページから以下の記述がある。【 】内はその転載です。

【東大経済学部教授の土屋守章氏が「ハーバード・ビジネス・スクールにて」(中公新書)という充実した内容の本を書いている。

同書によると、ハーバード・ビジネス・スクールには毎年、約800人の入学者がある。これに対する教師は全体で約200人(正教授約80、助教授約40、講師約30など)で「大企業並みの大所帯」だという。学生はわずか2年間で千冊の本を読む。…無論それは読むだけでは済まない。学生はその「ケース」を頭に入れ、その局面に身を置き、教師の挑発を受けつつ激しい討議を行うのである。

「西洋実学の実たる所以」

と福沢がいったことをそのまま生きた機関にしたのが、この存在らしい。… .

 野村証券のニューヨーク駐在の役員である寺沢芳男氏も、古い時期に、この機関に留学した人である。「ぜひ寺沢さんに会え」

と、日本を出るとき、友人からいわれた。寺沢さんはウォール街にあるニューヨーク証券取引所での日本人としてただ一人の会員だという。

「僕には猫に小判だよ」

と、尻込みしたが、友人の方で寺沢さんに連絡してしまっていた。…

 寺沢氏は野村証券の専務であると同時に米国の現地法人であるノムラ・セキュリティー・インターナショナルの会長でもある。… .

(野村氏は)いきなり、ニューヨークを証券の面からみた説明にとりかかってくれた。

「日本の証券界とは大きなちがいがあります」

「日本では、昔から投資と投機とを分けて考えます。伝統的に、投資を正しいとし、投機をいかがわしいとするのです」

 私のような門外漢でもそう考える。資本主義の正道は投資であり、投機はバクチではあるまいか。

アメリカでは、投資的な証券市場参加者は10%ぐらいしかいません。あとの90%は、投機家です」

それがウォール街だという。….

先物売買のことをフューチャー(future)というんです。投機とは主としてフューチャーをやることなんです」

と寺沢氏はいった。すごいはなしである。しかも、ウォール街での先物買いは決して危険ではないという。

「投機家たちは危険でないシステムをつくるのです。投機家である会社(銀行・証券会社・保険会社)は、先物に数学的な体系を与える能力を持った頭脳を、年俸何億円かで契約します。その専門家に決してソンをしないシステムを作ってもらい、コンピューターで運用するんです」

 そういう頭脳はハーバード・ビジネス・スクールのようなところで養成される、と寺沢さんはいう。私のような素朴な日本人から見れば、この大学院は実に危険なことを教えていることになる。…

 以下はウォール街知識の初歩だろうが、寺沢さんによると、アメリカでは銀行が証券会社の要素を持ち、証券会社が銀行の要素を持っているという。また保険会社にとっては客から金を集めるのは当然の業務ながらそれは半分の性格で、あとの半分は投機をやる。

 投機。むろん投資ではない。三者とも投機をするためにこそウォール街にオフィスを置いているのである。バクチでありつつもソンをしないシステムを開発しては、それへカネを賭け、カネによってカネを生む。

(アメリカは大丈夫だろうか)

という不安を持った。専門家の寺沢さんには決して反問できない不安である。

 資本主義というものは、物を作ってそれをカネにするための制度であるのに、農業と高度技術産業はべつとして、モノをしだいに作らなくなっているアメリカが、カネという数理化されたものだけで(いまはだけとはいえないが)将来、それだけで儲けてゆくことになると、どうなるのだろう。亡びるのではないか、という不安が付きまとった。

 19世紀末から、世界通貨はポンドからドルに変わった。イギリスの産業力をアメリカの産業力が圧倒的に凌駕したためである。そのドルを裏打ちしている産業力がもし衰えれば、金融や相場という、考えようによっては資本主義の高度に数理化された部分は、どうなるのか、素人の不安はとりとめもなくひろがるのである。】

 たぶん、この記述を読んだ時に私も同様な危惧を持ったと思う。

この本を読んだ当時、私は高知県会議員であったが、知り合いの衆議院議員から、アメリカは金融取引が主流になっており、日本は遅れている。

と、考えている日本の若手実業家グループがおり、彼らの話を聞くとその通りで、大儲けしている実業家がいる。との話であった。

私は、その話を聞いた時に、そんなに上手くいくのかね、と司馬氏と同じ危惧を持った。

数年後、2008年9月のリーマンショックとなって世界中が大不況に陥った。

日本は比較的被害が少ないといわれたが、それでも世界的不況の波をもろに被った。

司馬氏が危惧していた通り、米国はモノを作るという生産国の座を、中国などのアジア諸国に明け渡したままだ。

 

極真空手浜井派、浜井織安会長のご逝去に際し、哀悼の誠を捧げます。

12月14日、プロレスラーの宮本和志氏の公式YouTube「カズシズチャンネル」で、浜井織安先生ご逝去の一報を聞き、大変驚きました。

心より、哀悼の誠を捧げます。

昨晩、同じYouTubeで、第二報が放映されたので、

https://youtu.be/t_eefPNdKmo?si=V8Hh6e3tc-b5GSaO

道家浜井織安先生に対する私の思いを述べます。

私は浜井先生とは面識はありません。

昭和52年(1977年)7月、26歳の時に、佐藤勝昭塾長率いる日本空手道佐藤塾に入会したところ、佐藤勝昭塾長から、いきなりその時の秋に開催される極真会館主催の第9回全日本空手道選手権に出場するよう言われて、出場した。

浜井先生のご逝去の報を伝える以下の「イーファイト」ニュースでは、私は1回戦で判定負けしたが、浜井先生はこの大会で2度目のベスト8である4位に入賞している。

https://news.yahoo.co.jp/articles/08fb0a8554820364f6841416839b4ce594982679

第9回大会は東孝先生が優勝され、その後極真空手を退会して大道塾を起こされた。

東孝先生は、佐藤塾を設立した当初から、佐藤塾の昇段審査会や納会に来ており、何度か面識はあった。

6年前であったか、私が国会議員になってからP&K.O空手道大会で再会した時に「おう、中西さん、覚えてるよ」と言ってくださった。

その東孝先生も一足先に旅立たれた。

一連の報道によると、浜井先生は私と3歳違いの年下だが、学年は2年違いのようだ。

私は、佐藤塾に入門する前から浜井先生の事は、極真空手の強豪の一人として知っていたと思う。

試合も何度か見た覚えがある。

当時、佐藤勝昭師範から「浜井は一橋大学の出身で、頭もいいんだ」という、非常に好意的な話を聞いた覚えがある。

昨年からプロレスラーの宮本和志さんのYouTubeで、浜井先生の話を聞く機会があり、何十回も見た。そして、多くの回で、浜井先生の話に賛同した。

浜井先生がレンタルビデオ会社を経営して、大変な実業家でもあった事も初めて詳しく知った。

とりわけ、日本の真の歴史に精通されている事に驚いた。

浜井先生の歴史観は私の歴史観とほぼ同じであった。

また、中国にも極真空手を広めた状況についても、初めて詳しく知った。

さらに、極真空手松井章圭会長が、口利きで100億円手にしたと言われたグッドウィル事件では、浜井先生がこのYouTubeで話していた「グッドウィルで380億円を稼いだ男」という本を読んで真相を知った。

また、このYouTubeで浜井先生が、佐藤勝昭師範の話をされていたことが何度かあり、その時に佐藤師範に電話して、浜井先生が佐藤師範の話をされていた事をお伝えすると、喜んでおられました。

私は、昨年から、佐藤塾主催で始まった、P&K.O.空手道選手権大会の大会会長を仰せつかって、空手道に関わってますが、7年前から、佐藤塾時代から面識のあった、沖縄市にある剛柔流沖縄館の仲本喜一館長から琉球古武道を教わっており、大会空手とは違った稽古を続けております。

浜井先生が始められた護身空手は一度も見た事はありませんが、極真空手を武道空手に近づけようと努力されている事はよく伝わって来ました。

武道としての空手道発展の為に尽くしておられた浜井先生が、まさか、こんなに早く亡くなるとは想像してませんでした。

ご本人が一番残念でしょう。

あらためて、哀悼の誠を捧げます。

 

派閥のパーティー券キックバック問題

私のブログへのアクセス数で、12月7日のアクセス数が普段の10倍近くあった。

多分、この問題への記述を期待してのアクセスかなと推測する。

昨日書いたように、この日は私の誕生日だが風邪でダウン、38.2度の熱でブログを書ける状態ではなかった。

私は2017年の9月?頃に石破派に19人目の会員として入会し、2021年2月に退会するまで3年間ほど在籍した。

記憶をたどって調べてみると、私のノルマは20枚、石破派のノルマが少ないことも今回初めて知ったし、同じ派閥の他の議員さんのノルマが何枚だったかも、全く興味がなかったので聞いた事もなかった。

私の場合、1回目は数枚足りずに自腹を切った。

2回目にギリギリでノルマを達成した。

3回目は数枚上乗せで売ることが出来、これがキックバックで政治資金報告書に記載している。

当時の石破派は、盆暮のいわゆる「氷代、餅代」も含めて全て、石破派宛の領収書を書いたので、全て政治資金報告書に記載している。

私の場合、議員活動1年間の報告として、東京と高知で会費1万円の国政報告会を開いた。

東京では2万円が普通だが、私は会費1万円で、昼にカレーライスの食事付きでホテルで開くと、政治活動資金として残るのは2割ほどであった。

自分の国政報告会のパーティー券を支援していただいている皆様に買っていただき、その上、派閥のパーティー券を売るのは、私にとって本当にしんどい事だった。

売るのは秘書さん達だが、ノルマを達成すれば、それ以上売ることは、彼らに求めなかった。

しかし、今回の報道が事実ならば、すごい数を売っている議員さんがいる。

大臣経験者のノルマが300枚ということは、二階派を退会した櫻田義孝議員の報道で初めて知った。

私には想像出来ない事だ。

歳相応に無理はきかないことを実感

6日(水)に東京から帰り、自宅でYouTubeを開いたら、参議院議員西田昌司先生が、大腸からの下血で入院したとの、本人の病室からの動画を見てビックリした。

それによると、3年前にも、さらにその3年前にも同じ大腸からの出血があったと話されていた。

西田昌司先生は、議員時代からいろいろと教えをいただいており、特に、西田先生がご自分で執筆され、自費で全国会議員に配布された財政に関する論文は大変勉強になりました。

とりわけ、その論文の中で、戦後すぐの日本のインフレの原因は、日本が米軍の空襲により、生産設備が壊滅的打撃を受けていた所へ、海外からの軍人、民間人約500万人が帰国して生活を始めた為に、極端な物不足から起こったものであるとの話に、大変納得しました。

また、7日の積極財政議連の勉強会では、講師に元内閣官房参与本田悦朗先生と西田昌司先生を迎えての対談だという事を前日聞いていたので、YouTubeで見る事を楽しみにしておりました。

そこで「メッセージ」ソフトで西田先生へお見舞いをお伝えしたところ、ご丁寧な返信をいただき、出血は止まり、8日には退院出来るが、明日の勉強会には出席出来ないとの事でしたが、退院出来るとの事で一安心です。

翌日は、私の72回目の誕生日でしたが、私が宿毛へ帰ってハマチやタイの養殖を始めてからの友人である武山作さんの葬儀へ参列した。

この頃から体調が悪く、時折りセキが出ていた。

この夜38.2度の熱を出し、上半身が痛む、おそらくインフルエンザであろう、我慢して寝た。

翌日になっても体調は回復せず、昨日まで寝込んだ。今日(11日)も本調子ではない。

思えば、11月17日、3泊4日の台湾旅行から関空へ帰国し、そのまま東京へ移動して参議院同期との懇親会が終わった後で、背中の痛みでどうしようもなくなり夜中にマッサージを呼んだ。

疲れで背骨が曲がったままになっているとの事、翌日も我慢して中央大学少林寺拳法部の創立60周年祝賀会に出席した。

痛みは、痛み止めを飲んだら楽になったが、帰宅後3日間は大人しくしていたら回復した。

しかし、すぐこの週の25日(土)には憂国忌の講演の為に上京した経緯はこのブログへ書いた。

風邪(インフルエンザであろう)で4日間も寝込んだのは記憶にない。

しばらくは大人しくしております。