豊穣の島 佐渡島

「『佐渡島の金山』の世界遺産登録を実現する議員連盟」21名と一緒に新潟県佐渡島を訪れている。

佐渡島へは新潟港から佐渡両津港までジェットフォイルの高速船で約1時間、この船は平均時速68㎞(37ノット)で走る。相当に速い。

来てみたら、佐渡島は、私がそれまで知らずにイメージしていた流刑の島とは全く違って、金銀山の島佐渡、農業漁業の豊かな豊穣の島佐渡であった。

(下の写真は佐渡市観光振興部世界遺産推進課の宇佐美亮課長補佐)

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この宇佐美さんが、ユネスコ登録に向けて、佐渡島を訪れる審査する人達に説明するそうです。佐渡金銀山について大変詳しい。

(下の写真は相川地区の北沢浮遊選鉱場跡を視察している様子、中央が中曽根弘文議連会長)

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同行していただいた渡辺竜五佐渡市長(下の写真)

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(私の背景の山が有名な「道遊の割戸」山の頂上から手掘りで金銀鉱を掘り出した為に、山が二つに割れている。)
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佐渡金銀山はパンフレットによると「佐渡島の金山は、16世紀末から19世紀半ばにかけて、豊かな金鉱山の島である佐渡島において、徳川幕府の管理・運営の下、いわゆる鎖国政策によって海外との技術交流が限られる中、ヨーロッパとは異なるシステムとして発展を遂げ、世界に誇る質・量の金を生産した伝統的手工業による大規模かつ250年以上の長期にわたり継続した金生産システムを示す稀有な産業遺産です。」

江戸時代の残された鉱山の中心が相川地区にある「相川鶴子金銀山」で、ここの本格的な開発は慶長6(1601)年に始まったそうです。

それ以前、平安時代後期から佐渡に金銀鉱がある事はわかっていたそうで、西三川砂金山で、砂金を拾っていたそうです。

金銀鉱山を見つける「山師」は、私のイメージでは詐欺師と同義語であったが、本物の山師は鉱山を見つける技術師であった。

金銀は石英と一緒に見つかるので、山が光って見えるそうだ。
(下の写真は復元された江戸時代の勝場(せりば)跡で、議連事務局長で、佐渡島を選挙区に持つ細田健一衆議院議員さんと記念撮影)
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また、金銀鉱山で鉱石を掘り出した人達は、当時世界最先端の技術を持った技術者集団で、高額の報酬をもらっていたそうです。

また、佐渡島は江戸時代に鉱山の採掘から小判の生産までやっていたそうです。

佐渡島の鉱山の記録は絵巻物(下の写真)として残っているのが特徴だそうです。

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宇佐美課長補佐の説明では、佐渡金銀山で1989年(平成元年)までに掘り出された金は78トン、銀は2330トンで、銀の産出量は今後も国内では破られないだろうと話してました。