敗戦記念日に「ルーズベルトの開戦責任」を再読して思う

敗戦記念日の今日、あらためて大東亜戦争について考えてみる。

ルーズベルトの開戦責任」を書いたのは、第二次大戦当時米国共和党の重鎮議員の一人であったハミルトン・フィッシュ、書かれたのは1976年、彼が87歳の時である。

その時にはフランクリン・ルーズベルトはもちろんチャーチルも亡くなっていた。

また、日本で刊行されたのは2014年(平成26年)であり、私は文庫本として発行されたのを2018年(平成30年)1月に読んだ。

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この本の要点は第一に、1941年(昭和16年) 11月26日に米国から日本に提示された、いわゆるハルノート最後通牒は、閣僚の一部そして軍の最高幹部の一部にしか知らされず、米国議会には全く知らされていなかった。

その事について筆者は繰り返し述べている。

「(ルーズベルト大統領の)第4期は我が国の歴史の中でも最も暗い時代となった。その筆頭が日本に対して(議会に内緒で)突きつけた最後通牒であった。その最後通牒は、極めて挑発的で、日本を戦争に追い込んでしまった。

ヤルタ会談もひどいものであった。そこには共和党の意見を反映できる人物は1人もいなかった。死期の迫った大統領の周りを固めていたのは(スターリンとの親密さを自慢する)ハリー・ホプキンスであり、ソビエトのスパイであったことが戦後になって露見したアルジャー・ヒスであった。その結果、世界の半分が共産主義者の手中に落ちたのである。」

また、別のページでは

最後通牒であるハル・ノート真珠湾攻撃以降も意図的に隠された。最後通牒を発した責任者はもちろん、フランクリン・ルーズベルト大統領である。

 日本の対米戦争開始で喜んだのはスチムソン(米国陸軍長官)でありノックス(米国海軍長官)であった。彼らは根っからの干渉主義者であり、日本と戦うことになるを喜んだ。…

 ルーズベルトも、スチムソンもハルノートを「最後通牒」だと考えていた事は明らかである。スチムソン自身の日記にそう書き留めてある。

関係者の誰もが日本に残された道は対米戦争しかないと理解していた。わが国はこうして憲法に反する、議会の承認のない戦争を始めたのである。アメリカは戦う必要もなかったし、その戦いを(アメリカ国民も日本も)欲していなかった。

 最後通牒を発する前日の11月25日の閣議に参加していたのは、ハル、スチームソン、ノックス、マーシャル、スタークである。フランクリン・ルーズベルト大統領が指名し、登用したものばかりであった。「どうやったら議会の承認なく、また国民に知られることなく戦争を始められるか。彼らの頭の中にはそれだけしかなかった。私はフランクリン・ルーズベルト大統領と同政権幹部の行った隠蔽工作を白日のもとに晒さなければ気がすまない。アメリカ国民は真実を知らなければならない。… .

 ここまで読み進まれた読者は、日本に対する最後通牒を、国民にも議会にも知らせることなく発した者の責任を容赦なく追求すべきだとの私の考えに同意してくれると信じている。

そして同時に、罪を着せられたキンメル提督(ハワイに在った米海軍太平洋艦隊司令官)とウォルター・ショート将軍(陸軍中将、ハワイ方面陸軍司令長官)の潔白も証明されなくてはならない。ハルゼー提督がいみじくも述べているように、この2人はスケープゴートにされたのである。3千人にもなろうとする真珠湾攻撃での犠牲者に対する責任を本当に取るべき人間はほかにいた。この2人の軍人が身代わりにされたのであった。

 キンメル提督は後年、フランクリン・ルーズベルトを歯に衣着せぬ厳しい調子で糾弾している。

ルーズベルト大統領と政権幹部の連中が悪意を持って真珠湾を守る陸海軍を裏切った』(原注:1966年12月12日ニューズウィーク誌)

フランクリン・ルーズベルト大統領がその企みの中心人物である。彼が日本艦隊の動向をハワイに知らせるなと命じたのである。日本の動きをマーシャルには知らせていた。しかしフランクリン・ルーズベルトはマーシャルにも箝口令をひいた』(原注:1966年12月7日、NYタイムズ紙)

なぜ知らせなかったか、それは、日本に、開戦の第一撃を撃たす為だった。

第二に、ハワイにある太平洋艦隊司令官キンメルとハワイ方面陸軍司令長官であるウォルター・ショート陸軍中将には知らされていなかった。

また、この数ヶ月前にルーズベルト大統領は、太平洋艦隊をハワイのパールハーバーに移したが、当時の太平洋艦隊司令官リチャードソン提督は移そうとする事に反対していた。」

その為にリチャードソン提督は太平洋艦隊司令官を解任され、キンメルに代わったのである。

また、日本が、ハルノートを受け入れていたらどうなっていたかについては、こう書かれている。

「日本に対する最後通牒が、日本の野村吉三郎駐米大使に手交されたのは、1941年11月26日のことであった。その通牒は、日本のすべての軍隊の中国及びインドシナからの撤退を要求していた。軍隊だけでなく警察の撤退までもが条件であった。中国という表現には満州を含んでいた。この通牒を前にした日本は壁際に追い詰められたネズミであった。戦う以外の道が残されていなかった。そうしなければ、日本の指導者は、自殺を迫られたか、暗殺されたに違いない。」

さらに、当時の日本の状況についてはこう書かれている。

「日本は、わが国との戦いを避けるためには、ほとんど何でもするというような外交姿勢をとっていた。ベトナムからは米、天然ゴム、錫などが必要だった。日本のベトナムへの進駐は、フランスのペタン政権の了解を得た上でのことであった。言わずもがなのことであるが、もしオランダが日本に対して石油の供給を拒めば、日本は蘭印(インドネシア)に進駐するであろう。日本が生存するためには致し方がない。

日本は元来フィリピンなどを含む南方地域には関心がなかった。しかし石油だけは違った。石油なしでは日本は生きていけない。商船も軍船も機能不全に陥ってしまう。

 近衛文麿首相は和平を希求していた。ワシントンへでもホノルルへでも出かけていて、フランクリン・ルーズベルト大統領と直接交渉することを望んでいた。わが国の要求に妥協し、戦いを避けるための暫定協定を結びたいと考えていた。しかしルーズベルトは近衛との会見を拒否し続けた。日本に戦争を仕掛けさせたかったのである。そうすることで対独戦争を可能にしたかった。

 駐日大使のジョセフ・グルーは、日本がどれほど和平を望んでいたかを知っていた。だからこそ、直接交渉すべきだとワシントンに献言した。フランクリン・ルーズベルト大統領は、そして彼を取り巻く干渉主義者たちは(会見を拒否し)、姦計を弄し、わが国を戦争に巻き込んだのであった。わが国はあの戦争を戦うべきではなかった。不要な戦争であった。」

引用が長くなるので、ここらで最後にするが、ハルノートの意味については、こう書かれている。

「あの最後通牒が何を引き起こすのか、それを理解することは容易である。日本の歴史、制度、あるいは、日本人の心理に詳しくなくてもすぐにわかることである。

彼らは3つの結論を出した。1つはどのような政権であれ、ハル・ノートを受け入れれば政権は崩壊するということである。

2つ目は、ハル・ノートに示された過激な要求で、太平洋地域の和平維持を目指す米日の会談はもはや望めないということである。

そして3つ目は、ハル・ノートを受けた日本はもはや宣戦布告なくして、対米戦争をいつ始めてもおかしくないということであった。」

 米国は、1941年の開戦当時は日本軍の暗号を解読できていなかったが、外務省の外交暗号は開戦前から解読されていた。

フランクリン・ルーズベルト大統領の陰謀に気付かず、真珠湾攻撃を行った日本の情報収集能力の無さと政治判断の誤りが、大東亜戦争の敗戦原因であったが、現在の日本が、その反省に基づいて対策を行なっているとは思えない。

 戦後、憲法9条とGHQ占領政策によって、日本国民はそうなってしまったのだが、ウクライナ戦争が始まった今、一刻も早くこの状況を改善すべきである。