敗戦記念日に紫電改にお参りした。

敗戦記念日の今日、源田実海軍大佐によって昭和19年12月25日横須賀基地で編成され、翌年松山基地へ移転して、広島県呉基地を爆撃する米軍爆撃機、戦闘機を迎撃した「海軍第343航空隊、通称・剣部隊」所属の戦闘機紫電改をお参りして来た。

今日は十数人が来館してました。

県会議員現役の頃から、毎年8月15日は高知県護国神社へお参りして来た。

引退した今年は、高知市へ出向かず、愛媛県愛南町の馬瀬山公園の山頂に展示してある紫電改をお参りして来た。

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この紫電改は、昭和20年7月24日の午後、この展示館のすぐ下に見える久良湾に着水した。

昼間であった為、多くの目撃者がおり、また近くの海岸で壕を掘っていた予科練の兵隊が直ぐにカッターを出して救助に向かったのだが(陸地から120メートルほどの海に着水した)、パイロットは見つからず、以来24年間水深40メートルの海底に沈んでいたのを昭和54年(1979年)7月14日に引き上げ、制作した新明和工業(株)(旧 川西航空)が、1ヶ月かけて一部補修・防錆塗装をして、この記念館に展示してある。
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私の自宅(高知県宿毛市)からは車で30分ほどで行けるので、年に1〜2回は訪れる。

また、私は大学生の頃に海軍第343航空隊の活躍を本で読み、それ以来、この部隊に対する思い入れが強く、このブログにも何回か書いて来たが、改めてあらましを記す。

昭和20年7月24日、豊後水道上空で行われた空中戦に参加した343空の紫電改は21機、そのうち未帰還機は6機。

パイロットは鴛淵孝海軍大尉(25歳)、

武藤金義海軍少尉(29歳)、

初島二郎海軍上飛曹(22歳)、

米田伸也海軍上飛曹(21歳)、

溝口憲心海軍一飛曹(21歳)、

今井進海軍二飛曹(20歳)

この内、第701飛行隊長であった鴛淵大尉と、その2番機であった初島上飛曹は、米海軍のパイロットが、九州寄りの豊後水道上空で隊長機のマークを描いた紫電改の撃墜を報告しており、この機体のパイロットの可能性は低い。

なお、鴛淵孝大尉の生涯については、海軍兵学校第68期の同期生であった、作家の豊田穣氏が書いた「蒼空の器」に詳しく書かれている。

残る4機の内、この紫電改が見事な着水をするのを見た目撃者が複数おり、また、引き上げられた機体も4枚のプロペラの先がわずかに変形しているだけであったので、ベテランパイロットではないかと推測されており、撃墜数30機の撃墜王であり「空の宮本武蔵」との異名をとる、評判の高かった武藤金義少尉の機体ではないかと推測されている。

武藤少尉は唯一の妻帯者で、機体引き上げ時は奥様の喜代子さんが見守っていたのをニュースでみた。

引き上げられた機体は弾痕も無く、エンジンのトラブルではなかったかと推測されている。

今回、たまたま私の妻が数日前に放映された「NHK特集 最後の戦闘機 紫電改」(1979年制作)というテレビ番組を録画してくれていたので、昭和54年(1979年)7月の引き上げの様子、海底に沈んでいた機体の様子、志賀淑雄・第343空飛行隊長をはじめ、当時の関係者の証言を興味深く聞いた。

その中で、カッターで救助に行った元予科練の兵士が「操縦席にパイロットがいたが、動かなかった」と証言してのを見た。

これは初めて知った。

私は宿毛へ帰って来てから、地元愛南町郷土史家にこの戦闘機の話を聞きに行ったのだが、その史家の話では、パイロットの行方は不明だが、生き延びている可能性もある、との事であったが、私はそれはないであろうと思う。

今回あらためて紫電改展示館で、戦死された6名のパイロットの家族の話を展示してあるのを読んだ。

テレビ放映でも証言されているものもあった。

そのうち2人の母親は、7月に元気でやっているとの手紙をもらったばかりだったので、9月に戦死広報が届いても信じられなかっと、書いたあった。

343空の第301飛行隊長であり、名パイロットで、撃墜王、菅野直大尉は8月1日に、空中戦で戦死している。しかも、撃墜されたのではなく、乗機の機関砲の筒内爆発であった。遺族はやり切れない思いであったろう。

昭和20年8月15日の敗戦まで、多くの若者が、家族を思い、愛する人を思い、国を守るために戦い、散華したことを私は決して忘れない。